売りに出された50万人の英国「バイオバンク」健康データ――日本への教訓✉️144✉️
英国には「UKバイオバンク(UK Biobank)」という、約50万人のボランティアから集めた遺伝情報や検査結果、生活習慣などを蓄えた巨大なデータベースがあります。世界66カ国、2万人を超える研究者が利用してきた、医学研究の共有財産のような重要な存在です。
ところが、2026年4月、その参加者データが、中国のアリババ系の通販サイトに売りに出されているのが見つかりました。出品はすぐに削除され、売買は確認されていません。データからは氏名や住所などが取り除かれていましたが、性別や生まれた年と月、生活習慣などは含まれていました。
驚かされたのは、流出の経路です。ハッカーによる攻撃ではなく、正式な契約を結んでデータを受け取っていた3つの学術機関の研究者から漏れていたのです。UKバイオバンクは研究者向けの解析環境を丸ごと閉鎖し、研究は半年以上止まりました。2026年10月末の時点でも、安全対策を終えて政府の承認を待っている段階です。
再開後の新しい方針は、要するに「データを外に出さない」というルールです。研究者は管理されたクラウドの中でだけ解析し、持ち出せるのは審査を通った集計結果だけになります。さらに、研究者がネット上に公開するプログラムにデータが紛れ込んでいないかを、AIを使って毎日チェックする仕組みも導入します。

「名前を消せば安全」ではない
このUKバイオバンクのケースが教えてくれる大事な点は、2つあります。
まず、名前を消したデータでも完全に安全とは言えないことです。年齢や住んでいる地域、病歴など、一つひとつはありふれた情報でも、組み合わせると「あの人だ」とわかってしまうことがあります。特に遺伝情報は本人だけでなく家族にも関わるため、ひとたび漏れると取り返しがつきません。
そして、最大のリスクが外部の攻撃者だけではないことです。正規の利用者がデータを手元に持ち帰れる限り、その後の扱いはその人の意識や管理に任せるしかありません。契約や研修だけでは防ぎきれないため、英国は「そもそも持ち出せない仕組み」へと大きく舵を切ったのです。
マイナ保険証ーー日本でも医療データ活用が始まる
実は日本でも、医療データを研究や薬の開発に生かすための整備がここ数年で一気に進んでいます。実は、マイナンバーカードやマイナ保険証の普及は、次世代医療基盤法を中心とする医療データの二次利用(研究・創薬活用)と、国の進める医療DXの両輪として密接に連動しています。主な動きを整理すると、次のようになります。

興味深いのは、日本の制度にもすでに英国と似た考え方が入っていることです。改正次世代医療基盤法では、データを使う事業者の認定に2つの型があり、そのうち1つは、利用者が自分のところにデータを保存せず、データを用意した事業者の環境の中で分析する形です。まさに「外に出さない」仕組みです。また、仮名加工した情報については、個人を特定しようとする行為や第三者への提供が禁じられ、守秘義務には罰則もあります。
日本が抱える課題
ただし、制度があることと、それが現場できちんと機能することは別の話です。英国の例を重ね合わせると、日本には少なくとも4つの宿題が見えてきます。
①「持ち出し」をどこまで許すかです。データを自分のパソコンで自由に扱えるほうが研究者にとっては便利です。しかしUKバイオバンクも、クラウドへの移行を進める途中で、過去に配ったデータが各地に残っていたことが弱点になりました。日本でもこれから仕組みを作るのであれば、最初から「配らずに使わせる」設計を基本にできるかが問われます。
②医療現場のデジタル化と守りの強さです。日本は小さな病院や診療所ほど電子カルテの導入が遅れてきた経緯があり、国は安価なクラウド型への切り替えで普及を急いでいます。一方で、2022年には大阪の病院がランサムウェア攻撃を受け、電子カルテが長期間使えなくなるなど、医療機関のサイバー対策の弱さも浮き彫りになっています。
AIを使っているとみられるサイバー攻撃が日常的になっている今、データを集める前に、守る力を一緒に育てる必要があります。
③研究者側のルールと教育です。英国では、研究者が研究の透明性のために公開したプログラムに、うっかり参加者のデータが混ざる問題が何年も続いていました。悪意がなくても漏れるのです。日本でもデータを使う研究者が増えれば、同じことは必ず起こります。研修の義務化や、違反した場合の処分、自動で見つける仕組みまでを含めて考えておくべきでしょう。
④もっとも大切な「信頼」です。新しい制度では、大病院に患者データの提供を義務づける方向が示されています。研究のためには大きな前進ですが、患者から見れば「自分のデータがどこで、誰に、何のために使われるのか」が気になるのは当然です。使われ方をわかりやすく知らせること、使われたくない人が断れる道を残すこと、そして万一問題が起きたときに素早く正直に公表すること。こうした積み重ねがなければ、どれほど立派な制度でも、データを提供してくれる人は集まりません。
英国の例は、一度の流出で世界中の研究が半年以上止まるほど、健康データの信頼が重いものだということを示しました。日本はいま、医療データを活用する仕組みを大きく広げようとしている最中です。今回の英国の失敗を自分たちの設計に生かせるのは、まさにいまです。自分のデータが未来の医療に役立つと同時に、しっかり守られていると感じられるか。その実感を一人ひとりが持てるかどうかが、日本の医療データ活用による医療の発展につながるのです。
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