デジタル社会の鍵としての生体認証✉️142✉️

このところ、サイバーセキュリティについての関心が高まるなか、体の特徴や行動といった「バイオ情報」で本人を確かめる生体認証の話題を聞く機会も増えています。生体認証は忘れることがなく、他人に教えることもできません。金融、医療、行政手続き、スマートフォンなど、私たちの生活のあらゆる場面に広がってきました。ところが、現在の生体認証は決して「万能の鍵」ではありません。
山形方人 2026.10.26
誰でも

最大の弱点は、一度盗まれた生体情報は取り替えられないという点です。パスワードなら漏えいしても変更できますが、指紋や顔は一生変えられません。さらに、生成AIの登場によって、顔や声を本物そっくりに偽造する攻撃が急速に現実味を帯びています。

こうした状況を受けて、認証の考え方そのものも変わりつつあります。これまでは、入口で一度だけ本人確認をすれば、その後は信頼するという「静的認証」が主流でした。しかし、ログインした後に端末を乗っ取られたり、通信を横取りされたりする攻撃が増えた結果、「誰も最初から信頼しない」というゼロトラストの考え方が広がっています。利用中もずっと、目立たない形で本人確認を続ける「連続認証」へのシフトです。

そして今、指紋・顔・虹彩といった「見た目」の特徴を超えて、体内の化学物質、心臓の電気信号、無意識の動作までを使う、新しい生体認証技術の利用を探る時代が始まろうとしています。今回は、このような新しい生体認証の可能性について紹介します。

主流の生体認証――その強みと限界

現在、最も普及している生体認証は、指紋認証、顔認証、虹彩認証の三つです。いずれも長い研究の歴史を持ち、高い精度と使いやすさで社会を支えてきました。しかし、サイバー攻撃の側から眺めると、それぞれにはっきりとした弱点があります。

指紋認証は、指先の細かな溝の模様を読み取る方式で、生体認証の中でも最も身近な存在といえるでしょう。スマートフォンの画面ロックや、オフィスの入退室管理で広く使われています。一人ひとりの模様は異なり、生涯ほとんど変わらないという優れた特徴があります。

しかし、私たちはコップやドアノブ、スマートフォンの画面などに、毎日無数の指紋を残しています。攻撃者がこの残った指紋を採取し、シリコンなどで型を取って偽の指を作る「プレゼンテーション攻撃」は、研究の世界ではすでに何度も実証されています。また、指の乾燥や傷、加齢によって模様が薄くなり、本人なのに認証されないという問題も残っています。

顔認証は、カメラで顔の特徴を捉え、触れずに素早く本人を確かめる方式です。考えてみれば、顔で相手を見分けることは、人類が太古の昔から社会の中で当たり前に行ってきた本人確認の方法です。顔認証は、その最も古い方法をコンピューターに置き換えたものといえます。今では、スマートフォンの顔認証から、オンラインでの本人確認、空港のゲートまで急速に広がっています。

便利さは抜群ですが、その分、攻撃者からも狙われやすくなっています。写真や動画をカメラに見せる単純な手口から、精巧な3Dマスク、さらには生成AIで作ったディープフェイク映像まで、なりすましの手段は年々巧妙になっています。特に深刻なのは、カメラの映像そのものを偽の映像にすり替えて、システムに直接流し込む「インジェクション攻撃」です。これに対抗するため、カメラに映っているのが本当に生きた人間かどうかを見分ける「生体検知(ライブネス検知)」が欠かせなくなっています。

虹彩認証は、黒目の周りにある虹彩の複雑な模様を近赤外線カメラで読み取る方式です。虹彩には非常に多くの特徴点があり、一卵性双生児でも模様が異なるため、数ある生体認証の中でもトップクラスの精度を誇ります。国のデジタルID制度や、高度な警備が必要な施設で使われています。一方で、専用の高価なセンサーが必要なこと、利用者がカメラに目をしっかり向けて静止しなければならないことなど、導入や使い勝手の面での壁が残っています。

この三つに加えて、声で本人を確かめる声紋認証もあります。声紋認証は、声の高さや響き、声帯や口の中の形といった体の特徴に、話す速さや抑揚といった話し方のクセを組み合わせてデータ化し、本人を確認する非接触型の技術です。電話の声だけで相手が誰かわかるように、声もまた、人間社会で長く使われてきた本人確認の手がかりでした。ところが、最近のAI技術の進歩により、わずかな時間の録音からでも本人そっくりの人工音声を作り出せるようになりました。実際に、家族や上司の声をまねた詐欺も報告されており、声紋認証だけで本人を確かめる方法は、もはや十分な安全性を保てなくなりつつあります。

このように、主流の生体認証は、いずれも「外から見える、あるいは聞こえる特徴」を使っています。外から見えたり聞こえたりするということは、裏を返せば、外から盗み取ったり、複製したりできる可能性があるということです。ここに、次世代の生体認証が目指す突破口があります。

未開拓のイノベーション——化学情報で挑む呼気・生体ガス認証

見た目の特徴が抱える「盗まれる、複製される」という弱点を、根本から解決しようとする全く新しい発想があります。その1つが、人の吐く息や体から出る匂いの成分で本人を見分ける「生体ガス認証」です。

私たちの体からは、遺伝子や免疫の働き、食生活、体調に応じたさまざまな化学物質が、ガスとして常に放出されています。その組み合わせは人によって異なり、いわば「化学の指紋」と呼べるものです。ニオイで家族や親しい友人が近くにいるか分かるといった経験は誰でもあるでしょう。

以前は、皮膚から出るガスを使う研究が進められていました。しかし、皮膚ガスに含まれる匂いの成分は極めて薄く、一般的なセンサーではほとんど検出できないという大きな壁がありました。この壁を乗り越えたのが、東京大学や九州大学などの研究グループです。研究グループは、皮膚ガスよりも成分の濃度がはるかに高い「吐く息」に注目しました。精密な分析を行った結果、吐く息の中に個人を見分けられる化学物質のパターンが存在することを突き止めました。

研究グループは、この呼気を読み取るために、16種類の異なる材料を組み合わせた「人工の鼻」とも呼べるセンサーを開発しました。息に含まれる分子がセンサーの材料に吸着すると、材料がわずかに膨らみ、電気の流れやすさが変化します。16個のセンサーそれぞれがどう反応したかというパターンを人工知能で分析することで、その人ならではの化学的な特徴を浮かび上がらせます。年齢や性別、国籍の異なる20人を対象とした実験では、平均97.8%という高い精度で本人を見分けることに成功しました。

サイバーセキュリティの観点から、この技術の最大の魅力は「盗みにくさ」にあります。顔は隠し撮りされ、指紋はコップから採取されます。しかし、吐く息は体の中で作られ、吐き出された瞬間に空気中へ散らばって消えていきます。他人がこっそり持ち去り、後で再現することは極めて困難です。また、手の傷や顔の変化、加齢の影響も受けにくいという利点もあります。

もちろん、課題も残されています。食事や飲酒、服薬、体調によって息の成分は一時的に変化します。また、現時点では20人規模の原理実証の段階であり、数千人、数万人の中から本人を確実に見分けられるかどうかは、これからの検証を待つ必要があります。それでも、センサーの改良と人工知能の進歩によって、複製が極めて難しい新しい認証技術として期待が高まっています。

生きて活動する証を捉える「生体電気・循環器シグナル認証」

体の表面や化学物質だけでなく、皮膚の下で絶えず動いている心臓や脳の信号を使う認証も、次世代の有力候補として注目されています。

その代表が、心臓の動きを使う「心波形認証」です。心臓は拍動のたびに微弱な電気信号を発しており、これを記録したものが心電図です。心臓の大きさや向き、電気の伝わり方は一人ひとり異なるため、心電図の波形にも個人差が現れます。近年は深層学習の進歩により、心電図の波形を画像のように変換して分析する手法などで、非常に高い識別精度が報告されています。手首で脈の変化を光で読み取る方法や、心臓の音を使う方法も研究されています。

セキュリティの面で心波形認証が優れているのは、そのデータが「今、この人が生きて活動している」ことの証明そのものである点です。写真やマスク、録画した映像では、心臓の鼓動は再現できません。顔認証では後付けで必要だった生体検知が、心波形認証では最初から組み込まれているのです。スマートウォッチや指輪型の端末、自動車のハンドルに組み込んだセンサーを通じて、触れているだけで自然に本人確認が完了する仕組みも期待されています。ただし、運動や緊張で心拍が変わったときにどう対応するか、また心電図は健康状態を映す情報でもあるため、医療データとしてのプライバシーをどう守るかが重要な課題になります。

さらに研究が進んでいるのが、脳の電気信号を使う「脳波認証」と、耳の形を音で測る「耳音響認証」です。脳波は考え方や認知の特徴を反映するため、他人が真似することは事実上不可能です。現在は電極の装着の手間などから特殊な用途に限られていますが、機器の小型化とともに研究が続いています。

耳音響認証は、イヤホンから耳の穴に向けて音を出し、鼓膜や耳の穴の形に反射して戻ってくる音をマイクで捉える技術です。耳の内部の形は外から見えにくく、撮影して盗むことが難しいという強みがあります。イヤホンを着けるだけで本人確認ができるため、マスクや防護服を着る医療現場や工場でも、衛生的に使える認証手段として期待されています。

日常の操作に溶け込む「行動生体認証」と連続認証

体そのものの特徴ではなく、人が無意識に行っている動作のクセから本人を見分けるのが「行動生体認証」です。利用者に特別な操作を求めないため、使い勝手を損なわずにセキュリティを高められるのが特徴です。

その一つが、歩き方で本人を見分ける「歩容認証」です。歩幅、腕の振り方、関節の曲がり方、姿勢などを分析します。防犯カメラの映像から歩く姿を分析する方法と、スマートフォンやウェアラブル端末に内蔵された動きのセンサーを使う方法があります。カメラを意識したり立ち止まったりする必要がなく、離れた場所からでも本人を特定できるため、施設の警備や入退室の管理に活用が期待されています。最近の深層学習技術を使えば、服装や靴、荷物の違いによる影響もある程度取り除けるようになってきました。一方で、本人が気づかないうちに識別できるという性質は、監視社会への懸念と表裏一体であり、利用のルール作りが欠かせません。

もう一つが、キーボードやスマートフォンの操作のクセを使う方法です。キーを押している時間、次のキーへ指を動かすまでの時間、画面をなぞる速さ、押す強さ、指が触れる面積などを、ミリ秒単位で計測して学習します。研究段階では、キー入力のクセだけで非常に高い精度で本人を見分けられたという報告もあります。

サイバーセキュリティの観点から、行動生体認証の最大の価値は「連続認証」を実現できる点にあります。従来の認証では、一度ログインに成功すれば、その後に誰が操作しているかは確かめられませんでした。行動生体認証を使えば、利用者がメールを書いたり、ウェブサイトを見たりしている間も、裏側でずっと「いつもの本人らしいか」を判定し続けられます。もしログイン後に第三者が端末を乗っ取ったり、不正な送金を試みたりすれば、操作のクセが急に変わったことから異常を検知し、すぐに画面をロックしたり、追加の確認を求めたりできます。金融機関では、自動化されたプログラムによる不正アクセスを見抜く手段としても活用が進んでいます。利用者には負担を感じさせず、裏側で守り続ける見えない安全網といえます。

マルチモーダル融合とプライバシー・ゼロトラスト戦略

ここまで見てきたように、どんなに優れた生体認証にも長所と短所があります。一人ひとり異なること、長く変わらないこと、測りやすいこと、使いやすいこと、偽造されにくいこと。これらすべてを一つの方式で完璧に満たすものは存在しません。そこで鍵となるのが、複数の方式を組み合わせる「マルチモーダル生体認証」と、生体情報そのものを守る仕組みです。

マルチモーダル生体認証は、顔と虹彩、顔と手のひらの静脈、歩き方と心電図のように、性質の異なる複数の特徴を組み合わせて判定します。攻撃者にとっては、顔の偽造と心臓の鼓動の再現を同時にこなさなければならず、なりすましの難易度は大きく跳ね上がります。また、指をけがしているときやマスクをしているときに、別の方式で代わりに認証できるため、使いやすさの面でも利点があります。銀行のATMやデータセンターの入退室管理、レジのない無人店舗での手ぶら決済など、実社会での導入も進んでいます。

そして、次世代の生体認証を社会に広げるうえで避けて通れないのが、生体情報の保護です。冒頭で触れたとおり、生体情報は漏れても取り替えがききません。だからこそ、「そもそも生体情報を集めない、送らない」という設計が重要になります。

その代表的な考え方が、生体情報を利用者の端末の中だけで照合する方式です。スマートフォンなどには、外部から読み出せない特別な保護領域があり、生体情報はその中に閉じ込めたまま照合が行われます。サーバーに送られるのは「本人確認に成功した」という結果を示す暗号の署名だけです。パスワードに代わる新しいログイン方式として普及が進む「パスキー」も、この考え方に基づいています。

生体認証は今、指紋・顔・虹彩という「見た目」の時代から、体内の化学物質、心臓や耳の信号、そして無意識の行動までを組み合わせる、多次元の時代へと移りつつあります。ただし、新しい技術はそれ自体が新しい攻撃の標的にもなります。技術の進歩と同じ速さで、偽造への対策、プライバシーの保護、そして利用のルール作りを進めていく必要があります。それができたとき、私たちはパスワードに悩まされることなく、自分の体と行動そのものが安全で快適な「信頼の鍵」となる社会を手にすることができるでしょう。

では、その先にある「究極の鍵」は、一人ひとりの設計図ともいえるDNA情報を使う遺伝子認証なのでしょうか。いつの日か、パスポートやマイナンバーカードに遺伝子情報が紐づけられる時代が訪れるのでしょうか。しかし、サイバーセキュリティの観点から見ると、答えは意外にも慎重なものになります。DNAは、髪の毛や皮膚のかけら、コップに残った唾液など、私たちが毎日あらゆる場所に残しているものです。つまり、指紋以上に「盗みやすい」情報でもあります。また、一卵性双生児はほぼ同じDNAを持つため、見分けることができません。そして何より、DNAには病気のなりやすさや家族とのつながりまで刻まれています。一度漏えいすれば、本人だけでなく血のつながった家族の秘密までもが、二度と取り戻せない形で失われてしまいます。DNAは犯罪捜査や身元確認のように「誰であるかを特定する」場面では強力な手段ですが、日常の「本人であることを確かめる」鍵としては、むしろ最も慎重に扱うべき情報なのです。究極の生体認証とは、最も深い個人情報を差し出すことではなく、守るべき情報を最小限にとどめたまま信頼を築くことなのかもしれません。

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