「ヒト脳細胞」をコンピューターに使う時代――ヘンリエッタ・ラックスから考える、細胞を提供した人の権利✉️122✉️

AIやゲノム解析、再生医療などの技術は、この10年ほどで驚くほど速いスピードで進歩しています。その一方で、「人の細胞や遺伝子を、どこまで自由に使ってよいのか」という新しい倫理の問題も次々と生まれています。
山形方人 2026.08.10
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その原点ともいえる出来事が、ヘンリエッタ・ラックスという一人の女性の物語です。

今回は、先週、NewsPicksで公開した記事の内容をやさしく書き換えて、紹介しています。

知らないうちに世界一有名になった細胞

1951年、アメリカで31歳のヘンリエッタ・ラックスは子宮頸がんの手術を受けました。そのとき、医師は彼女のがん細胞を本人に知らせることなく研究室へ送りました。当時は患者の細胞を研究に使うことが珍しくなく、法律でも禁止されていませんでした。

ところが、この細胞には特別な性質がありました。普通の細胞は何回か分裂すると死んでしまいます。しかし彼女の細胞は、何度でも増え続けたのです。

この細胞は「HeLa細胞」と名付けられ、世界中の研究室で使われるようになりました。ワクチンの開発、がん研究、遺伝子研究など、現代医学の発展には欠かせない存在となり、数え切れないほどの命を救ってきました。

しかし、その一方で大きな問題もありました。ヘンリエッタ本人は、自分の細胞が研究に使われていることを知りませんでした。そして家族も何十年もの間、その事実を知らされなかったのです。

さらに、その細胞を使って多くの企業が大きな利益を得る一方で、彼女の家族は生活に困り、十分な医療さえ受けられない状況が続いていました。

これは、「医学の発展」と「人としての権利」がぶつかった最も有名な例の一つになりました。

「同意」とは、サインを書くことではない

現在では、病院や大学で研究に協力するとき、「同意書」にサインや捺印を求められることがあります。しかし、本当に大切なのはサインではありません。

「この研究では何をするのか」「どんな目的で使うのか」「将来、別の研究に使われる可能性はあるのか」ーーこうしたことを十分に説明し、本人が納得した上で判断することが、本来の「インフォームド・コンセント(十分な説明にもとづく同意)」です。

例えば、友人から「ノート貸して。」と言われたので貸したとします。ところが後日、そのノートの内容がネット上で販売され、多くの人が見ていたことを知ったらどう思うでしょうか。

「そんな使い方をするなんて聞いていない。」と思う人がほとんどでしょう。

細胞や血液も同じです。研究に協力した人が、「そんな目的に使われるとは思わなかった」と感じることが問題なのです。

血液が勝手に別の研究に使われた事件

実際に、このような問題は何度も起きています。

1989年、アメリカのハヴァスパイ族という先住民族は、糖尿病の原因を調べるために大学へ血液を提供しました。ところが数年後、自分たちの血液が糖尿病とはまったく関係のない研究にも使われていたことを知ります。

しかも、その中には部族の歴史や伝説を否定するような研究まで含まれていました。研究者には「医学研究」という意識しかなかったかもしれません。

しかし、提供した側から見ると、「約束が違うじゃないか。」という話です。最終的に大学は訴えられ、謝罪と補償を行いました。

それ以上に大きな損失は、ハヴァスパイ族が研究への協力をやめてしまったことでした。一度失った信頼を取り戻すことは、とても難しいのです。

新しい問題――ヒトの脳細胞がコンピューターになる時代

こうした歴史は過去の話ではありません。今、新しい形で同じ問題が生まれようとしています。

近年、iPS細胞から「脳オルガノイド」と呼ばれる小さな脳のような組織を作れるようになりました。そして研究者は、その脳細胞をコンピューターのように使う研究を進めています。

なぜでしょうか。ヒトの脳は、とても省エネルギーだからです。私たちの脳は、たった約20ワット、つまり小さな電球1個分ほどの電力で働いています。それにもかかわらず、現在のスーパーコンピューターでは簡単にできないような複雑な情報処理を毎日こなしています。

そこで研究者は、「脳細胞そのものに計算させたら、未来のコンピューターになるのではないか。」と考え始めました。実際には、培養した脳細胞に電気信号を送り、昔のテレビゲーム「Pong」の遊び方を学習させる実験も成功しています。

医療のために提供した細胞が、AI開発に使われる?

ここで新しい倫理の問題が生まれます。例えばあなたが病院で、「がん研究の役に立ててください。」という気持ちで細胞を提供したとします。

ところが数年後、その細胞からiPS細胞が作られ、さらに脳オルガノイドになり、

・AIの開発

・ロボットの研究

・新しいコンピューターの設計

・IT企業の商品開発

に使われていたとしたら、どう感じるでしょうか。もちろん、「それでも役立つなら構わない」と考える人もいるでしょう。しかし、「医療のためだと思っていた。」「AI開発に使われるとは聞いていない。」と思う人も少なくありません。

ここで問題になるのは、研究そのものではありません。本人が納得した上で提供したのかということです。

「何にでも使います」という同意書

現在、多くの病院では、「今後の医学研究に利用します。」という広い意味の同意書を使っています。これを「包括的同意(Broad Consent)」といいます。

研究者にとっては便利です。何十年後に新しい研究が始まっても、その細胞を利用できるからです。

しかし、AIやバイオコンピューターのような技術は、昔は存在しませんでした。そのため、「がん研究や再生医療なら協力するつもりだった。」という人が、「まさかコンピューター開発に使われるなんて。」「自分の細胞を、AIに利用するなんて。」と感じる可能性があるかもしれません。

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続きは、911文字あります。
  • 研究者たちは何を提案しているのか
  • 多様な人が研究に参加することも大切
  • 倫理は科学の邪魔ではない

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