「ドーピング公認」スポーツは是か非か?(その1)IOCに反旗を翻す「エンハンスド・ゲームズ」の論理✉️48✉️

2026年5月にラスベガスでの開催が予定され、元オリンピックメダリストや現役の第一線で戦うアスリートが参戦を公表しているエンハンスト・ゲームズ。その背景を紹介し、スポーツの未来だけでなく、生物学の未来、人類の未来を2回シリーズで考えます。
山形方人 2025.12.05
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スポーツ界がこれまで経験したどの騒動とも異なる地殻変動が、いま静かに、しかし確実に進行しています。オーストラリアの実業家アーロン・デソウザ氏(Aron D’Souza)が旗を振る「エンハンスド・ゲームズ(The Enhanced Games: TEG)」は、世界アンチ・ドーピング機関(WADA)の規制を根本から否定し、パフォーマンス向上物質の使用を公然と認める史上初のマルチスポーツイベントとして注目を集めています。デソウザ氏は、このプロジェクトの目的をショーの演出ではなく、アスリートが自身の肉体について判断する権利を取り戻し、国際オリンピック委員会(IOC)が長年構築してきた搾取的な構造を根底から揺さぶるためだとしているのです。

この「異端のオリンピック」は2026年5月にラスベガスでの開催が予定され、既に複数の元オリンピックメダリストや現役の第一線で戦うアスリートが参戦を公表しています。しかし、この構想が発表されて以来、スポーツ界、科学者、医療専門家、メディアといった幅広い分野で、アスリートの健康、倫理、競技の公平性をめぐり激しい議論が沸き起こっているのです。

権威への反逆:デソウザ氏が掲げる「解放」の思想

TEGを立ち上げたデソウザ氏はロンドンに拠点を置き、過去にはピーター・ティール氏とともに米メディア「Gawker」の破産へ追い込んだ訴訟に関与するなど、既存の権威に対して攻撃的で、反体制的とも言える経歴を持つ人物です。彼がTEGを始めた背景には、明確かつ極端な思想が横たわっています。

彼の理念の中心にあるのは、「アスリートは成年であり、自分の体へ何を施すかを自ら決める権利がある」というリバタリアン的な哲学です。彼は「私の体、私の選択。あなたの体、あなたの選択」という信念を繰り返し語り、FDA(米食品医薬品局)が承認した製品の使用について、政府やスポーツ連盟といった存在が判断を下すことに強く異を唱えます。

TEGでは違法薬物は当然ながら禁止されていますが、パフォーマンス向上物質は自由意志に基づき使用できます。そのうえで、競技への参加はアスリート自身の判断であり、誰かに強いられる性質のものではないと説明しているのです。

さらに、デソウザ氏はIOCとWADAを激しく批判しています。IOCは腐敗し、貪欲で、莫大な資金を稼ぎながらアスリートへの利益還元が少ないと主張します。そしてWADAについては「IOCのための反科学的な警察組織」だと断じ、その存在自体を不要であると語ります。デソウザ氏は、オリンピックの運営に伴う巨大なインフラ投資や官僚的なプロセスを取り払えば、イベントは実質的に無料で開催でき、その余剰をアスリートへ還元したり研究開発に投資するべきだと説明します。これは、オリンピックが抱える構造的な課題への痛烈な批判であり、アスリート中心の新しいスポーツモデルを提示する試みといえます。

資金と共鳴者:ハイテク界の異端児たち

この破壊的な構想は、テック業界の影響力ある投資家たちを巻き込みながら急速に資金を集めています。2024年1月、TEGはピーター・ティール氏、クリスチャン・アンガーマイヤー氏、バラージ・スリニヴァサン氏といった著名投資家から数百万ドル規模の資金調達を実現したのです。

彼らがTEGを支持する理由は、既存のスポーツの価値観が大きな転換点を迎えているという見立てにあります。アンガーマイヤー氏は、AIの普及によって人々の余暇が増え、極限的なパフォーマンスを見せるスポーツエンターテイメントへの需要が高まると予測しています。彼は「人間は最速の人間を見たいのであって、自然体の最速を見たいのではない」と語り、TEGがその期待に応える存在であると支持を表明しました。

さらに2025年2月には、ドナルド・トランプ・ジュニア氏のベンチャーファンドが参戦を表明し、TEGを「真の競争と真の自由を象徴するアメリカの未来」と位置づける発言を行い、政治的な影響すら帯び始めています。

参戦表明:アスリートたちの「裏切り」と「夢」

TEGが単なる構想ではなく、実際のイベントとして前進していることは、著名アスリートの参戦表明によって示されています。その象徴が、オーストラリアの元オリンピック競泳選手ジェームズ・マグヌッセン氏James Magnussenです。彼はTEGが提示した「50メートル自由形の世界記録を破れば100万ドル」という賞金に惹かれ、現役復帰を宣言しました。彼は「半年で記録を破る」「全身ドーピングするつもりだ」と発言し、スポーツがあまりに真剣に扱われすぎていると語りました。また、その賞金が自身の10年間の生活を支えるとし、アスリートにとってTEGが経済的に魅力的な選択肢であると明かしています。

2025年にはギリシャのクリスティアン・ゴロメエフ氏Kristian Gkolomeev(競泳)が非公式ながら世界記録を破り、賞金を獲得したと発表されました。また、2024年五輪の銀メダリストであるベン・プラウド選手Ben Proud(競泳)や、世界チャンピオンのフレッド・カーリー選手Fred Kerley(陸上)など、現役トップクラスの選手までもが参戦を表明しています。これは、TEGが単に引退選手の集まりではなく、競技の最前線に立つアスリートさえ惹きつける強力な引力を持っていることを示しています。

スポーツ界・科学界の「危険」警告

一方で、スポーツ界や反ドーピング機関、科学界からの反応は極めて厳しいものです。IOCはTEGがフェアプレーの概念を破壊すると非難し、WADAのバンカ会長は「馬鹿げたアイデアで危険だ」と断じました。WADA規定に基づき、TEGの参加者はクリーンなスポーツに復帰する際に重大なリスクを負うと警告されます。

健康面での懸念も大きく、専門家たちはデソウザ氏の「薬物でパフォーマンスが向上する」という単純な理解を批判し、薬物使用がアスリートに深刻な健康被害をもたらす可能性を警告しています。TEG側はFDA承認物質に限定し、競技前に血液検査や心電図などの包括的なスクリーニングを実施すると説明していますが、「能力の過剰強化がもたらす健康リスク」についての根本的な解決策は提示されていないと指摘されています。

また、スポーツ界における資金格差や競争環境の不公平さをさらに悪化させるのではないかとの倫理的な批判も存在します。

究極の選択:エンターテイメントか、フェアネスか

TEGが突きつけている問いは本質的です。スポーツは公正の象徴であるべきなのか、それとも観客の欲望を満たすエンターテイメントであるべきなのか。多くのメディアはTEGを「危険でアンフェア」と批判しつつも、その一方で「極限まで強化されたアスリートを見てみたい」という強烈な好奇心が存在することを否定できません。

さらに、アスリート側には経済的な合理性があります。十分な報酬が支払われないままキャリアを終えた選手にとって、TEGは大きな収入源となり得るのです。こうした現実が、TEGに対する複雑な感情を生み出しています。

TEGは既存の制度から厳しい批判を浴びながらも、巨額の資金とアスリートの欲望、そして観客の好奇心を糧に勢力を拡大しています。彼らはドーピングの議論を倫理や規制の問題から切り離し、「個人の自由」と「市場原理」によってスポーツを再定義しようとしているのです。

2026年5月、ラスベガスで本当に「ステロイド・オリンピック」が開催されるのか。その瞬間は、スポーツ史における最も大胆で危険な実験の幕開けになるかもしれません。デソウザ氏は「ディストピアと言う人もいるだろう。しかし、私にとってこれは未来だ。そしてまもなくピストルが鳴る」と語ります。この挑発的な言葉が示すように、スポーツの未来は、これまでの常識では測れない領域へと踏み込もうとしています。

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