ゲノム編集食品が拓く未来:EUが打ち出した「新ゲノム技術」規制緩和✉️52✉️
欧州連合(EU)の農業・食品産業は歴史的な転換点を迎えています。長らく、遺伝子組換え作物(GMO)に対する世界でも最も厳格な規制を敷いてきたEUが、ついに方向転換を開始したのです。
2025年12月4日、欧州理事会と欧州議会は、ゲノム編集技術を中心とした「新ゲノム技術(NGTs:New Genomic Techniques)」に関する新たな法的枠組みを定める規制案について、暫定的な政治合意に達しました。これは、単なる法律の改正という枠を超え、EUの食料システムの競争力と持続可能性を劇的に向上させる可能性を秘めた重要な一歩と言えるでしょう。
「より少なく、より多く」を実現するイノベーション
この規制緩和の背景にあるのは、「NGTs」と呼ばれる一連の革新的な技術です。NGTsとは、従来の育種技術や自然界でも起こりうる方法で種子を改変する技術の総称です。具体的には、特定のDNAを狙って少しだけ改変する「標的変異誘発」や、同じ植物や交配可能な植物の遺伝子を組み込む「イントラジェネシス」「シスジェネシス」などが該当します。
この技術の最大の魅力は、従来の育種よりも迅速かつ正確に、特定の望ましい形質を持つ植物品種を開発できる点にあります。
こうした規制緩和が求められるようになった背景には、近年の気候変動により、より早く環境変化に対応できる農作物を導入する必要性が高まっていることや、EU離脱後、ゲノム編集食品の規制緩和を積極的に推進している英国などの影響があります。
この技術により、気候変動に対する耐性が向上した品種、干ばつや洪水に強い作物、そして何よりも肥料や農薬の使用量を削減できる品種が、より速く、よりターゲットを絞って生み出されます。これにより、EUの農家やアグリフードセクターは、イノベーションの力を手に入れ、市民に安全で健康的な食料を提供し続けるための強力な武器を手にすることになるのです。
今回の規制案は、食料安全保障の強化、外部依存の低減、そしてEUの持続可能性目標達成への貢献を掲げつつ、人間と動物の健康、そして環境に対する強固な保護も同時に保証しています。
NGTsを分ける「二つの扉」:NGT-1とNGT-2
今回の合意の最も重要な柱は、NGT植物をその改変の程度に応じて二つのカテゴリーに分類し、異なる規制を適用することです。
NGT-1:従来の植物と同等と見なされる品種
NGT-1に分類されるのは、従来の育種や自然界でも起こりうる程度の、限定的なゲノム改変しか受けていない植物です。規制案は、このNGT-1植物が「従来の植物と同等である」という原則を維持しています。
規制の簡素化: NGT-1植物は、従来のGMO規制の要件から免除されます。市場投入のための検証手続きは簡素化され、行政負担が大幅に軽減されます。
非表示の原則: 原則として、NGT-1の植物と製品には表示義務がありません。これは「同等性の原則」に基づいています。ただし、種子やその他の植物生殖材料(栄養繁殖など)には表示が義務付けられます。これは、NGT-freeな(NGTを含まない)サプライチェーンを望む事業者の選択肢を確保するためです。
除外リスト: 議論の末、一部の形質についてはNGT-1カテゴリーから除外されることになりました。特に、除草剤耐性と「既知の殺虫性物質の生成」は除外リストに含まれ、NGT-1の対象外となります。これらの形質を持つ植物は、より厳格なNGT-2として扱われることになります。
NGT-1は、日本などで「SDN-1」および「SDN-2」の一部のゲノム編集技術に相当し、従来育種で得られる植物と実質的に同等とみなされるカテゴリーです。日本や米国でも、このタイプの品種は従来の植物と同等と評価されています。日本では表示義務はありませんが、企業や研究機関が政府に届け出る制度が運用されています。
ここで重要なのは、一般的なLoss-of-function型(機能喪失型)のSDN-1編集に加え、イントラジェネシスとシスジェネシスも従来の植物と同等と見なされる品種になるということです。
イントラジェネシス
イントラジェネシス(intragenesis)は、同じ植物種の遺伝子のみを利用する技術です。この方法では、対象となる植物が持つ遺伝子、またはその一部を、再配置したり、発現量を調節したりすることで、望ましい形質を発現させます。遺伝子自体は同じ植物種に由来しますが、その構成要素(プロモーター、コーディング配列など)は組み換えられ、新しい組み合わせで導入されます。たとえば、ある品種のジャガイモが持つ、特定の病原体に対する抵抗性遺伝子の発現を、遺伝子を再配置することで強化し病気に強いジャガイモを作出するといったことが考えられます。
シスジェネシス
シスジェネシス(cisgenesis)は、交配可能な別の植物種の遺伝子を利用する技術です。この方法では、対象となる植物と自然に交配できる植物種から、有用な遺伝子をそのままの構造(タンパク質をコードする配列、あるいは遺伝子のプロモーターやイントロンなどの自然な配列全体)で単離し、導入します。これにより、従来の交配では長い年月と何世代もの選抜が必要だった形質の導入を、短期間で実現できます。たとえば、野生のリンゴ(Malus sieversii)が持つ特定の病害抵抗性遺伝子を、栽培種のリンゴ(Malus domestica)に導入し、特定の病気に強い栽培種リンゴを作出する。自然に交配可能なカブが持つ特定の病気抵抗性遺伝子をハクサイに導入するケースなどが考えられます。
NGT-2:今後も厳格なGMO規制が適用される品種
NGT-2に分類されるのは、NGT-1よりも複雑で、「自然と同等」とは言い難いゲノム改変を受けた植物です。
GMO規制の適用: NGT-2植物には、従来のGMO規制の要件が引き続き適用されます。これには、市場投入前のリスク評価と認可手続き、トレーサビリティ、そして製品への表示義務が含まれます。
正確な情報提供: 表示に改変された形質に関する情報が含まれる場合、それは関連するすべての形質を網羅していなければなりません。これにより、消費者は正確で包括的な情報を得ることが保証されます。
栽培の選択権: 加えて、加盟国は自国領土内でのNGT-2植物の栽培をオプトアウト(拒否)する権利が認められました。また、NGT-2植物が意図せず他の製品に混入することを避けるための共存措置を講じることも任意で可能です。
NGT-2は、日本などで「SDN-2」といわれるものの一部、および「SDN-3」に相当します。なお、SDN-3が従来の遺伝子組換え技術(GMO)と大きく異なるのは、外部から導入する遺伝子のゲノム上での「挿入位置」を正確にコントロールできる点にあります。
知的財産権と透明性の確保
NGTsの急速な発展に伴い、種苗業者や農家からは知的財産権(IP)に関する懸念も上がっていました。IPがイノベーションを妨げたり、農家が種子を入手できなくなったりする事態を避けるため、今回の規制案では特許に関する懸念にも対処しています。
特許情報の公開データベース: NGT-1植物や製品の登録申請の際、企業や育種業者は、既存または係争中のすべての特許情報を提出しなければなりません。この情報は公開データベースに含められることになります。
ライセンス供与の意向: 企業や育種業者は、公正な条件の下で特許化されたNGT-1植物または製品の利用をライセンス供与する意向を、任意で提供することもできます。
特許専門家グループの設立と影響調査: 加盟国、欧州特許庁、共同植物品種庁の専門家で構成される特許専門家グループが設立されます。さらに、規制発効から1年以内に、欧州委員会は特許がイノベーション、農家への種子の供給、EUの植物育種セクターの競争力に与える影響に関する調査結果を公表し、必要なフォローアップ措置を提案するか、立法案を提出することになっています。
科学的進歩への適応と今後の展望
今回の合意は、2001年にGMOに関するEU法が採択された当時には存在しなかった、最新のバイオテクノロジーの進歩にEUの法規制を適応させる「科学への回帰」を意味します。欧州委員会は、「この新しいルールは、ブリーダーや農家が国際的な競争環境で優位に立つことを可能にする」と歓迎しています。
一方で、一部のNGOなどは「ラベルなしで特許化されたGMOや食品への道を開き、企業の市場支配力を高め、農家や消費者の権利を侵害するものだ」と強い懸念を示しています。
いずれにせよ、今回の暫定合意は、今後、理事会と議会によって正式に採択される必要があります。採択後、2026年中に官報に掲載され、その2年後から適用が開始される見込みです。施行後は、NGT製品の経済的、環境的、社会的影響について、持続可能性と安全性の側面に焦点を当てた強固なモニタリングプログラムが実施される予定です。
NGTsは、EUの食の未来、そしてグローバルな農業競争において、ゲームチェンジャーとなる可能性を秘めています。この新しいフレームワークが、いかにしてイノベーションを後押ししつつ、同時にEUが誇る高い安全基準と消費者の信頼を維持できるのか、世界が注目しています。
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