遅いことがリスク:速さを選ぶか、安全を選ぶか✉️62✉️
これまでの医療や生命科学は、いわば石橋を何度も叩いてから渡る世界でした。完璧な計画を立て、すべてのリスクを洗い出し、それから慎重に実行する。これは「ウォーターフォール型」と呼ばれるやり方で、長い間、科学の常識でした。
しかし現代は、不確実性だらけの時代です。技術も社会も変化が速く、「完璧な地図を描いてから出発する」こと自体が、もはや不可能になっています。そこで登場したのが、「まず一歩踏み出し、結果を見ながら進路を修正する」というアジャイルの発想です。 彼らにとっては、遅いことこそが最大のリスクなのです。
規制も“アップデート”され始めた
この考え方は、医療のルールを作る側にも影響を与えています。アメリカのFDA(食品医薬品局)が提案した「plausible mechanism pathway(もっともらしい作用機序経路)」は、その象徴です。
これは、「完璧な証明はまだでも、理屈として筋が通っているなら、柔軟に先へ進もう」という新しい承認ルートです。特に、患者一人ひとりに合わせて設計されるカスタム型の遺伝子治療では、従来の“大人数向け”の審査が合わなくなってきました。
規制もまた、ソフトウェアのようにアップデートされるべきだ、という考え方が、ここで顔を出しています。
論争の中心にいるスタートアップ「Unlimited Bio」
こうした流れの中で、強烈な賛否を集めているのが、ホンジュラスに拠点を置くスタートアップ Unlimited Bio です。彼らが掲げる目標は、非常に挑発的です。
「老化を、遺伝子治療でハックする」
MITテクノロジーレビューなどでも取り上げられ、期待と不安が入り混じった議論が巻き起こっています。
なぜ“少人数”で試すのか?
Unlimited Bioが実施しているのは、わずか10〜15人程度の健康なボランティアを対象とした遺伝子治療です。使われているのは、筋肉の成長を調整するフォリスタチンと、血管を新しく作るVEGFという2つの因子。
当然、多くの研究者はこう言います。 「その人数では、安全性も効果も証明できない」と。しかし、彼らの考えは真逆です。
Unlimited Bioは、従来の医学が抱える最大の問題を「遅すぎること」だと見ています。老化に関連する病気で、世界では毎日12万人以上が亡くなっています。 その一方で、新しい治療が正式に承認されるまでには、何十年もかかる。
彼らから見れば、それは燃え盛る家の前で、消火マニュアルを完璧に仕上げるのを待っているようなものなのです。
ソフトウェア開発のような医療
Unlimited Bioが採用しているのは、「ハイシグナル・イテレーション」という考え方です。 もし本当に強力な治療法なら、少人数でも“はっきりした変化”が見えるはずだ、という発想です。
実際、インスリンや抗生物質、バイアグラといった画期的な薬も、最初はごく少数の患者に現れた劇的な効果から始まりました。 彼らは医療を、巨大なタンカーではなく、小回りの利くスピードボートのように動かそうとしているのです。
VEGFという「強力だが危うい道具」
議論の中心にあるのが、VEGFです。これは血管を新しく作る非常に強力な因子で、使い方を誤ると、副作用のリスクもあります。
Unlimited BioはVEGFを「万能薬」とは考えていません。 老化という巨大な城を作るための、一つのレンガにすぎない、と位置づけています。
2021年のScience誌の研究では、老化によってVEGFの働きが弱まると、毛細血管が減り、細胞に酸素や栄養が届かなくなることが示されました。 その結果、エネルギー工場であるミトコンドリアが壊れ、炎症が慢性化する。 マウスでは、VEGFのシグナルを補うことで、寿命が2〜3割延びたという報告もあります。
「全身にばらまかない」という工夫
Unlimited Bioの特徴は、投与方法にもあります。 全身に影響が及ぶ方法ではなく、筋肉への局所注射を選んでいます。
これは、爆薬ではなく、精密なドリルで穴を開けるような発想です。 リスクを抑えつつ、必要な場所だけを狙う。その設計思想がここにあります。
なぜ「薄毛治療」が重要なのか
意外に思えるかもしれませんが、Unlimited Bioは「脱毛症」を重要な入口と考えています。
今の薄毛治療は、毎日薬を塗り続ける必要があります。これは、壊れた道路を毎日補修しているようなものです。 一方、VEGFによる遺伝子治療は、道路そのものを作り直す発想です。
もし一度の処置で、数年単位の効果が得られるなら、それは単なる美容ではありません。 老化によって衰えた組織を、どう立て直すかという、長寿科学の実験場になるのです。
倫理とスピード、そのせめぎ合い
Unlimited Bioは、批判から逃げません。 彼らのメッセージは明確です。
「何もしないことにも、リスクがある」
もちろん、彼らのやり方が正しいかどうかは、これからのデータ次第です。 厳格な臨床試験を経ていない不確実性は、確かに残っています。
それでも彼らが突きつけている問いは、重いものです。 「老化という、毎日12万人を殺している現象に対して、私たちはどこまで慎重であるべきなのか」
この問いは、単なるスタートアップの話ではありません。 人類が、自分たちの寿命を設計対象として扱い始める瞬間に立ち会っているのかもしれないのです。
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