「混入」という言葉の危うさ:ファイザー製ワクチンとSV40配列を巡る真実✉️57✉️
2021年のパンデミック以降、私たちの日常となった「mRNAワクチン」。その技術的な革新性が称賛される一方で、インターネットの海では、科学的根拠と憶測が入り混じった情報の嵐が吹き荒れています。中でも、ここ1、2年で特に注目を集め、一部のコミュニティで懸念を呼び、陰謀論の根拠となっているのが、「ファイザー製のワクチンに、がんウイルス由来の『SV40プロモーター配列』が混入していた」という言説です。
このニュースを耳にしたとき、多くの人が「がんウイルス」や「混入」といった言葉の響きに、反射的な不安や恐怖を覚える方もいるかもしれません。しかし、この事象を科学的に検討するうえで重要なのは、感情的な反発ではなく、「事実がどのような層から成り立っているのか」と「情報がどのような構造で拡散していくのか」を冷静に理解することです。結論から言えば、安全性について懸念すべき点はありません。また、「ファイザー製ワクチンに、がんウイルス由来の『SV40プロモーター配列』が混入していた」という言説を根拠に危険性を主張する見解は、分子生物学の基本的な知識を欠いた誤解であり、科学的には成立しません。
「事実」はどこにあるのか:何が発見されたのか
まず、科学的な事実関係を整理しましょう。確かに、ファイザー製のmRNAワクチン(コミナティ)から、SV40(simian virus 40)というウイルスに由来するDNA配列の一部が検出されたことは事実です。これは、カナダの微生物学者らが発表した解析結果に基づいており、後にファイザー社や米食品医薬品局(FDA)もその存在を認めています。
しかし、ここで立ち止まって考える必要があります。「混入」という言葉が示唆するような、意図しない事故や汚染だったのでしょうか。
実は、このSV40プロモーター配列は、ワクチンの製造過程で使用される「プラスミドDNA」の一部として元々含まれていたものです。mRNAワクチンを大量生産するためには、大腸菌を使って特定のDNA(プラスミド)を増やし、それをテンプレートにしてmRNAを合成します。SV40配列は、このプラスミドの中でmRNAの合成効率を高めるための「スイッチ」のような役割を果たす道具として、バイオテクノロジーの世界では数十年前から汎用されてきたものです。
つまり、それは「予期せぬ不純物」ではなく、「製造プロセスの部品の残りカス」というのが正確な表現です。
なぜ「隠蔽」と言われたのか:承認プロセスの齟齬
問題が複雑化したのは、規制当局への報告プロセスにありました。ファイザー社が当初、各国の規制当局(EMAなど)に提出した製造に関する文書において、このSV40配列の存在が明示的に記載されていなかったことが判明したのです。
この「記載漏れ」が、懐疑派の人々には「意図的な隠蔽」と映ったようです。「安全性に問題があるから隠したのではないか」というロジックです。これに対し、規制当局や専門家は「SV40のウイルスそのもの(全ゲノム)が含まれているわけではなく、機能を持たない断片的な配列であるため、安全性評価の文脈では重要視されなかった」と説明しています。
しかし、情報公開の透明性が極めて重視される現代において、このプロセスの不透明さが、デマや陰謀論が根を張るための「肥沃な土壌」を提供してしまったことは否定できません。
リスクの科学的評価:「がん化」の可能性は?
最も人々の不安を煽ったのは、「SV40はがんウイルスであり、その配列が人間のDNAに組み込まれてがんを引き起こす」という主張です。
科学的なコンセンサスを述べれば、このリスクは現時点では「全くない」と考えられています。理由は主に3つあります。
第一に、検出されたのはSV40という「ウイルスそのもの」ではなく、そのごく一部である「プロモーター配列」に過ぎません。プロモーター配列というのは、遺伝子の「スイッチ」役を果たすDNA配列のことです。遺伝子がいつ・どこで・どのくらい発現するかを決める領域です。「ここから読み始めよ」という標識に過ぎません。これ自体に細胞をがん化させる能力(ラージT抗原の発現など)はありません。
第二に、ワクチンの製造工程ではDNAを分解する処理が行われており、残存しているDNAは非常に断片化されています。断片化したDNAが細胞の核に入り込み、さらにヒトのゲノムに組み込まれて機能を発揮する確率は、生物学的に見て天文学的な低さです。
第三に、世界中の規制当局(FDA、EMA、日本の厚労省)は、残存DNAの量について厳しい基準(1回投与あたり10ng以下)を設けています。ファイザー製のワクチンに含まれる残存DNA量は、多くの場合この基準値内に収まっており、科学的に安全とされる範囲内であると結論付けられています。こうしたことは、12月中旬に発表された論文が議論しています。
SV40というウイルスとは
SV40(エスヴイ・フォーティ)は、分子生物学やがん研究の発展において、きわめて重要な役割を果たしてきたウイルスです。一言でいうなら、研究でSV40は細胞がどのようにしてがん化するのかを教えてくれた、小さなDNAウイルスです。
SV40は、アカゲザルの腎臓細胞から発見されたポリオーマウイルスの一種です。ウイルス粒子は非常に小さく、正二十面体構造を持ち、内部には約5,000塩基対という小さな環状二本鎖DNAが収められています。その名称は、「Simian(真猿類の)Virus」の40番目に同定されたウイルスであることに由来します。このように極めて単純な構造を持つことが、SV40を科学研究にとって理想的なモデル生物にしました。
SV40が特に重要視されてきた理由は、細胞増殖やがん化の仕組みを理解するうえで決定的な手がかりを与えた点にあります。SV40のゲノムには「ラージT抗原(Large T antigen)」と呼ばれるタンパク質をコードする遺伝子が存在します。このラージT抗原は、細胞分裂を抑制する役割を持つp53やRbといったがん抑制因子に結合し、それらの働きを阻害します。その結果、細胞は本来の制御を失い、強制的に分裂・増殖へと向かいます。この現象を通じて、がんが「細胞増殖のブレーキが壊れることで起こる」という概念が明確になり、がん研究の基盤が築かれました。ラージT抗原の遺伝子は細胞をがん化したりする目的などで利用されることもありますが、SV40プロモータといった配列とは関係ありません。
また、SV40はDNA複製の研究にも大きく貢献しました。このウイルスは、自身のDNAを複製する際に宿主細胞の酵素系をたくみに利用します。その仕組みを理解することで、ヒトを含む真核生物がどのようにDNAを正確に複製しているのかが詳しく解明されていきました。SV40は、生命現象の基本原理を探るための「分子生物学の教科書」のような役割を果たしてきたのです。
一方で、SV40には歴史的に知られたエピソードもあります。1950年代から1960年代にかけて、ポリオワクチンの製造にアカゲザルの細胞が使用されていた時期があり、その過程でSV40が意図せず混入したワクチンが接種されたことがありました。当時、数百万人がこうしたワクチンを接種したとされています。しかし、その後に行われた長期的な疫学調査では、SV40がヒトにおいて直接がんを引き起こしたという明確な証拠は確認されていません。現在では、ワクチン製造工程において極めて厳格な検査体制が確立されており、このような混入の心配はありません。
SV40は本来サルのウイルスでありながら、ヒトの細胞や生命現象を理解するために計り知れない貢献をしてきました。細胞増殖の制御という、がんの本質に迫る研究を可能にし、分子生物学の基礎を形づくった存在です。現在でも、プラスミドベクターやバイオテクノロジー研究の基盤ツールとして活用されており、その小さなゲノムが果たした役割は、生命科学の歴史の中で極めて大きなものだと言えるでしょう。
デマが広がる構造
では、なぜこれほどまでに「SV40混入=危険」という言説が広まったのでしょうか。ここには、現代特有の情報拡散のメカニズムが働いています。そこには誤情報や陰謀論が広がる典型的な構造があります。
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多くの人が理解できない専門用語の兵器化: 「SV40」「プロモーター」「ゲノム」といった専門用語は、一般の人には理解が難しい反面、権威性を帯びて聞こえます。これらの言葉を「がん」という強いキーワードと結びつけることで、強力な恐怖の物語が完成するのです。こうした物語を語り広げる人達がSV40ウイルスやプロモータという言葉について、どのような理解をしているのか不明ですが、これらのもつ意味を正確に理解していれば、危険性がないことがわかります。このような専門用語が含まれることで、恐怖を煽る陰謀論は、これに限らずしばしば観察されます。
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チェリー・ピッキング: 「DNAが検出された」という事実だけを切り出し、「その量は基準値内である」「機能を持たない断片である」という背景情報を意図的に排除することで、情報は歪められます。
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エコーチェンバー現象: SNSのアルゴリズムは、ユーザーが関心を持つ(または不安に思う)情報を優先的に表示します。一度「ワクチン 危険」といった検索をすれば、タイムラインはその手の情報で埋め尽くされ、それが「世界の真実」であるかのような錯覚におちいってしまうのです。
持つべき「情報のリテラシー」
このような騒動から学ぶべき教訓は、科学的な事実と、その解釈を切り分けて考える重要性です。
「DNA配列が含まれていた」のは事実です。しかし、それが「即座に危険である」というのは一つの極端な解釈に過ぎません。一方で、製薬企業や規制当局に対しても、プロセスの透明性をさらに高め、国民の疑問に対して真摯に、かつ迅速に答える責任があることが浮き彫りになりました。
私たちは、極端な「安全神話」にも、根拠の薄い「陰謀論」にも偏ることなく、常に「定量的」な視点を持つ必要があります。「含まれているか、いないか」という議論ではなく、「どういう質で、どの程度の量が、どのような状態で含まれており、それは科学的にどのようなリスクをもたらすのか」という議論に立ち戻らなければなりません。
ファイザー製ワクチンを巡るSV40配列の問題は、単なる科学の論争を超えて、現代社会における「信頼」のあり方を問う話題とはなっています。技術が進歩し、私たちの理解を追い越していく中で、不安は当然生まれます。しかし、その不安を「デマの拡散」という形ではなく、科学的に正しく理解し、「建設的な検証」と「透明な議論」へと昇華させていくこと。それが、この不確実な時代の真のリテラシーと言えるのではないでしょうか。
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