ネコのゲノム解析:ヨーロッパへの導入は農耕時代ではなかった✉️47✉️
現代の家庭で愛されるイエネコ(Felis catus)は、その起源と人類との共生の歴史において、いまだ多くの謎に包まれています。特に、いつ、どこで家畜化され、どのようにしてヨーロッパ大陸へと拡散していったのかという問いは、長年の議論の的でした。その理由は、古代のネコ科動物のDNAサンプルが不足していたこと、そしてイエネコがその祖先とされるアフリカヤマネコ(F. lybica lybica)や、ヨーロッパ土着のヨーロッパヤマネコ(F. silvestris)と形態的に極めて類似しているため、骨の残骸から種の特定が難しかったことにあります。
しかし、ローマ・トル・ヴェルガータ大学(ローマ第二大学)の研究チームは、古代の遺跡、博物館の標本、そして現代の個体から集められた87体ものネコ科動物の低〜中程度のカバレッジのゲノムを解析するという研究を11月27日付けでScience誌に発表しました(プレプリントサーバbioRxivdでは2025年3月に掲示)。この新たなゲノム解析は、従来のミトコンドリアDNA(mtDNA)のみに頼った知見を根底から覆し、イエネコの壮大な移動の歴史に新たな解釈をもたらしています。
曖昧だったネコ科の起源と拡散:これまでの「二つの波」説
イエネコの祖先は、北アフリカから近東にかけて生息するアフリカヤマネコ(F. lybica lybica)であったことは、広く受け入れられています。そして、いくつかの証拠から、家畜化の「中心地」として、主に二つの地域が有力視されてきました。一つは、およそ9500年前のレバント(新石器時代)、そしてもう一つは約3500年前のエジプト(ファラオ時代)です。レバントとは、東部地中海沿岸地方の歴史的な名称で、現在のシリア、レバノン、イスラエルあたりを指します。
過去に行われたmtDNAを用いた研究では、この二つの中心地に対応する形で、ネコのヨーロッパへの拡散も二つの波があったとするモデルが提唱されていました。具体的には、新石器時代の農耕民とともにアナトリア(近東、現在のトルコのアジア部分を占める半島の地域)からヨーロッパへ約6400年前に初期の拡散があり、続いて約2000年前の古代エジプトからの第二の波があった、という説です。
しかし、このmtDNA解析には限界があることが指摘されていました。それは、古代における遺伝子流入、すなわち野生種と家畜種の間での交雑が、mtDNAに基づく拡散経路の再構築を複雑にする可能性があるからです。また、ヨーロッパヤマネコ(F. silvestris)を含む野生種の過去の自然分布域や、彼らとイエネコとの混血の程度についても、依然として多くの疑問が残されていました。
ゲノム解析が暴いた「新石器時代導入説」の誤り
今回の研究は、過去11,000年にわたるネコ科動物のゲノムの時系列を構築することで、この拡散の定説に挑戦しました。イエネコがヨーロッパへ持ち込まれた時期について、従来の認識を数千年遅らせることを示唆しています。
新石器時代や金石併用時代の東南ヨーロッパやアナトリアから出土したネコの遺骸の中には、かつてmtDNA解析でアフリカヤマネコ(F. l. lybica)の系統を持つと特定されていたものがありました。しかし、今回のゲノム解析によって、これらのネコは実際にはヨーロッパヤマネコ(F. silvestris)であり、その祖先がアフリカヤマネコと交雑していたに過ぎないことが明らかになりました。
ゲノム解析で純粋なイエネコ/F. l. lybicaの遺伝子クラスターに属すると特定されたヨーロッパ最古のネコは、イタリア西沖合のサルデーニャ島にあるジェノーニ遺跡から出土した約2200年前の個体でした。ヨーロッパとアナトリアのその他の考古学的なネコで、このイエネコ系統に属するものは、すべて約2000年前以降に限定されます。この事実は、現代のイエネコの典型的な遺伝子プールを持つネコのヨーロッパへの本格的な拡散は、新石器時代ではなく、約2000年前から始まったことを決定的に示しています。
イエネコの起源は「北アフリカ」の別系統
さらに重要な発見は、この2000年前に急速に地中海全域に拡散したイエネコの遺伝子プールが、レバント(近東)のネコよりも、現代のアフリカヤマネコにより近縁であることを示した点です。具体的には、イエネコ/F. catusは、モロッコやチュニジアの現代の野生種を含む北アフリカの別系統から発生し、拡散した可能性が高いと示唆されています。
この結果は、イエネコのヨーロッパへの導入は、「新石器時代の農耕民によるアナトリア経由」という従来説を退け、「約2000年前の北アフリカからの導入」という新しい解釈を提示しています。
サルデーニャ島の「ヤマネコ」は別の波だった
今回の研究では、イエネコの拡散とは別に、サルデーニャ島のヤマネコの起源についても新たな知見が得られました。
サルデーニャ島のジェノーニ遺跡の約2200年前のネコや、現代のサルデーニャのヤマネコは、イエネコの遺伝子クラスターに含まれますが、彼らはイエネコとしてヨーロッパ全域に拡散した系統とは異なり、北西アフリカのヤマネコ、特にモロッコの野生種と密接に関連していることが判明しました。
このことから、研究チームはヨーロッパへのネコ科動物の導入が少なくとも二つの波で起こったと結論づけています。
最初の波(紀元前1千年紀以前): 北西アフリカの野生ヤマネコがサルデーニャ島に導入され、現在の島の野生個体群を確立した。
第二の波(紀元後2000年前以降): 北アフリカのまだ特定されていない別の集団が供給源となり、現代のイエネコの遺伝子プールを形成し、ヨーロッパ全土へと拡散した。
ゲノム時代のネコ研究:より複雑な全体像へ
この研究が示唆するのは、ネコの家畜化と拡散のプロセスが、これまでmtDNA解析が描いてきたよりも遥かに複雑で広範なものであったということです。ヨーロッパにおけるイエネコの登場は、新石器時代の農耕文化の広がりと連動したものではなく、地中海交易や古代ローマ時代といった、より後の時代の、北アフリカを中心とした文化・社会経済的な交流の結果であった可能性が高いのです。
なお、この研究は、限られたサンプル(特にレバントと北アフリカの野生種)に基づいているため、より多くのエジプトや他の地域のゲノムデータを集めることが、イエネコの正確な起源集団を特定し、家畜化を促進した文化的、社会経済的プロセスを解明するための次の重要なステップとなります。
今回の研究は、古代DNA解析の進化が、どれほど歴史的な定説を塗り替える力を持っているかを物語っています。長年の謎だったイエネコの起源は、単なる「エジプト」や「レバント」という二元論ではなく、北アフリカの複数の地域と文化が関与した、よりダイナミックで多面的なプロセスであったと理解すべきでしょう。現代の家庭にいるネコたちが、数千年前に北アフリカから船に乗ってやってきた、という壮大な歴史ロマンが、このゲノム解析によって明らかになったのです。
ネコのゲノム研究最近の話題から
ここからは、最近のネコのゲノム研究の成果を紹介します。
🐾 長毛種の「長毛」は、たった一つの遺伝子が関係していた
ネコの長毛症(Long-hair phenotype)を制御する主要な遺伝子は、FGF5遺伝子の変異であることが特定されています。この変異は、長毛種の代表であるメインクーンやペルシャネコの誕生に大きく関わり、近代の品種改良が作り上げた、短期間での形態変化の代表例です。
👁️ シャムネコの「青い目」と「神経学的特性」の裏側
シャムネコやバーミーズなどの品種が持つ特徴的なポイントカラー(体の末端だけ色がつく)と青い目は、チロシナーゼ遺伝子(TYR)の熱感受性変異によるものです。興味深いことに、この遺伝子変異は、わずかな神経学的特性(例:視交叉の異常な経路)とも関連していることが示唆されており、形態と行動が遺伝子レベルで結びついている可能性が指摘されています。
😴 「ネコは躾けられない」の科学的根拠──イヌとの社会性の違い
ネコの行動遺伝学はイヌほど進んでいませんが、ネコがイヌと比べて社会性や訓練可能性に関する遺伝子の選択圧が非常に弱かったことが示されています。イヌは人類の指示に従う方向に強い選択を受けましたが、ネコはネズミを捕るという単一のタスクにおいて「自立性」が重視された結果、人類との協調性に関する遺伝子の進化が緩やかだったと考えられます。なお、ネコも多くの社会的認知テストでイヌと同等の能力を示すことが報告されています。
😾三毛猫の「オレンジ色」を決定する遺伝子
2025年5月、九州大学と国立遺伝学研究所の共同研究チームは、長年謎とされてきた三毛猫の「オレンジ色」を決定する遺伝子を、X染色体上に位置する ARHGAP36遺伝子 であると特定しました。さらに、スタンフォード大学の独立した研究グループも同じ結論に到達しています。