筋肉の成長を操る司令塔──知られざるタンパク質マイオスタチン✉️11✉️
「最強の幼児」というニュースを覚えているでしょうか。2004年、生まれつき驚異的な筋肉を持つドイツの男の子が、世界中のメディアを騒がせました。男の子の筋骨隆々とした体は、幼いながらにボディビルダーを彷彿とさせ、見る者を驚かせました。この特異な体質の秘密は、彼の体内で筋肉の成長を抑制するはずのタンパク質が機能していなかったことにありました。そのタンパク質こそが、今回ご紹介する「マイオスタチン(ミオスタチン)」です。
また、ゲノム編集に関する話題でも、「マイオスタチン」はしばしば取り上げられます。日本では、京都大学と近畿大学の共同研究の成果としてリージョナルフィッシュ社が販売する「肉厚マダイ」はこのマイオスタチン遺伝子をゲノム編集技術で変異させたものです。ブタ、ヤギ、ウサギ、ウマ、ウシなどのゲノム編集でも、マイオスタチンは最初に試される遺伝子のひとつとなっています。
このタンパク質は、私たちの筋肉の成長を静かに、そして強力にコントロールしています。その正体は、筋肉細胞自身が作り出し、分泌するホルモンの一種。筋肉の成長にブレーキをかける「抑制因子」として機能します。もしこのブレーキがなければ、私たちの筋肉は際限なく成長し続け、とんでもないことになってしまうかもしれません。しかし、その「抑制」という役割が、時に病的な筋肉の衰弱を引き起こす諸悪の根源ともなり得るのです。
筋肉の成長を司る、謎多きタンパク質
マイオスタチン(myostatin, MSTN)は、「growth differentiation factor 8(GDF8)」とも呼ばれ、TGF-β(トランスフォーミング増殖因子ベータ)ファミリーに属する分泌タンパク質です。
ヒトのマイオスタチンは、375残基のアミノ酸(MQKLQLCVYIYLFMLIVAがシグナルペプチドで、G19からが成熟型)から成り立っています。約25kDaの大きさです。
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https://www.rcsb.org/structure/6UMX
筋肉細胞(筋細胞)によって作られ、血流に乗って全身を巡り、再び筋肉細胞に作用します。その作用は、まるで「もう十分だ」と筋肉に語りかけるかのように、筋肉の成長をストップさせることです。
このマイオスタチンの存在が、初めて科学的に明らかにされたのは1997年のこと。米国ジョンズ・ホプキンス大学のSe-Jin LeeとAlexandra McPherronが、マウスを使った実験で、この遺伝子を発見しました。彼らは、この遺伝子を人為的に破壊した「ノックアウトマウス」を作成しました。その結果、生まれたマウスは、通常の2倍もの筋肉を持つ、通称「マイティ・マウス(超強力マウス)」となりました。この劇的な変化は、マイオスタチンが筋肉の成長を抑制する極めて重要な役割を担っていることを証明する決定的な証拠となりました。
この発見は、生物学界に衝撃を与えました。なぜなら、これまで筋肉の成長は、トレーニングや栄養摂取といったポジティブな要因によって促進されるものだと考えられてきましたが、マイオスタチンは、その真逆、つまり「抑制」という観点から筋肉の成長をコントロールする仕組みが存在することを明らかにしたからです。これは、まるでアクセルと同時にブレーキも存在し、その絶妙なバランスによって車の速度が制御されているかのようです。
私たちの体もまた、筋肉の合成を促す「アクセル」と、マイオスタチンという「ブレーキ」の協調によって、その大きさが厳密に管理されているのです。
自然界に存在する筋肉の怪物たち
マイオスタチンの役割が明らかになるにつれて、研究者たちは、この遺伝子に変異を持つ動物が自然界にも存在することを発見しました。その代表的な例が、ベルギー原産の「Belgian Blue(ベルジアン・ブルー)」という牛です。この牛は、その名の通り青みがかった毛色をしており、筋肉が異常に発達した「Double-muscle(ダブル・マッスル)」と呼ばれる体型をしています。この牛の肉は、脂肪分が少なく、非常に柔らかいことで知られていますが、その驚異的な筋肉量は、マイオスタチン遺伝子に複数の変異があり、機能しないことによるものだったのです。
同様の例は、犬種の中でも特に足の速い「Whippet(ウィペット)」でも見つかっています。ウィペットの場合、ホモ接合体(両方の遺伝子に変異がある)は「bully whippet ブリー・ウィペット」と呼ばれ、頭が大きく、脚が短く、異常な筋肉を持つ特異な体型になります。
しかし、興味深いことに、ヘテロ接合体(片方の遺伝子に変異がある)のウィペットは、通常の個体よりも速く走ることができ、ドッグレースで優秀な成績を収める傾向にあることが判明しました。これは、マイオスタチンが完全に機能しない状態は必ずしも良い結果をもたらすとは限らない一方で、その働きが少しだけ抑制された状態が、パフォーマンスを向上させる可能性を示唆しています。
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