H9N2──静かな鳥インフルエンザが、次のパンデミックを準備している✉️34✉️
近年、鳥インフルエンザウイルスといえばH5N1型がニュースの主役でした。鶏に致死的な高病原性鳥インフルエンザウイルスとして養鶏業に大きな被害をもたらす一方で、ヒトに感染した場合、高い致死率で、世界各地で感染が拡大するたびに報道が相次ぎます。
しかし、その陰で、もうひとつのウイルスが静かに、そして確実に勢力を伸ばしていることをご存知でしょうか。その名は「H9N2型鳥インフルエンザウイルス」。低病原性とされ、長らく軽症ですむ存在と見なされてきたこのウイルスが、今、静かにヒトへの適応を進めているようです。
香港大学など香港のチームが、10月16日にEmerging Microbes & Infections誌に掲載した最新の研究では、H9N2型がすでにヒトの細胞で驚くほど効率的に増殖できる能力を獲得していることが明らかになりました。その結果は、私たちが抱いてきた「低病原性」という認識を根底から覆すものです。
世界の科学者たちは今、このウイルスの変貌を前に、かつてない警戒を強めています。
軽症と侮られたウイルスの逆襲
H9N2型は、インフルエンザA型の一種で、主に家禽や野鳥の間で広がってきました。これまで、ヒトに感染しても軽度の呼吸器症状を示すだけで、重症化することはほとんどないと考えられてきました。致死率が高いH5N1型や、過去に感染拡大したH7N9型などと比べ、脅威度が低いウイルスとみなされてきたのです。
しかし、事実は違いました。2015年以降、少なくとも173件のヒト感染が確認されています。その大部分は中国で報告されましたが、感染者の多くが軽症で済んだため、見逃されたケースが多数存在する可能性が指摘されています。
つまり、検査体制がH5N1ほど整っていない現状では、H9N2の実際の感染拡大を正確に把握できていないのです。感染が、既に進行しているかもしれません。
四半世紀での劇的変貌──ヒトへの適応が始まった
香港大学の研究チームは、H9N2型がどのようにヒトへの感染能力を高めてきたのかを追跡しました。彼らの研究は2024年、メルボルンで開催されたパンデミックに関する国際シンポジウムで発表され、科学界に衝撃を与えました。
研究チームは、1999年に採取された古い株(A/HK/1073/1999)と、2024年にヒトから採取された最新株(A/HK/2346/2024)を比較し、両者の「増殖能力」に大きな違いがあることを突き止めたのです。イヌの腎臓細胞で行った実験では、増殖量が桁違いの数値を示しました。これは、ウイルスが25年の間に、より効率的に細胞内で複製できるよう進化したことを意味します。
さらに驚くべきは、ヒトの鼻や肺のオルガノイドを用いた実験結果です。2024年株は、鼻・肺の双方で高い値を示し、ヒトの呼吸器内で活発に複製できることが確認されました。一方で、1999年株はヒトの細胞内でまったく増殖しなかったといいます。25年という短期間で、ウイルスがここまで「ヒト仕様」に変化した事実は、まさに衝撃的です。
ウイルスが選んだ進化の方向──ヒト型受容体への親和性
H9N2がどのようにヒトに適応してきたのか。その鍵を握るのが「受容体結合の変化」です。インフルエンザウイルスは、細胞表面にある「シアル酸」に結合して感染を始めます。鳥類の細胞には主に2,3結合型が、ヒトの細胞には2,6結合型が多く存在します。
研究チームは、2024年株がヒト型受容体(2,6結合型)への結合力を明確に高めていることを確認しました。つまり、ウイルスが鳥よりもヒトの細胞に感染しやすい構造へと進化していたのです。
さらに、感染対象となる細胞の種類にも変化が見られました。2024年株は、繊毛細胞と非繊毛細胞の両方に効率的に感染できる能力を持ち、上気道だけでなく下気道にも侵入しやすくなっていました。これは、感染力の増大とともに、症状の重症化につながる可能性を示唆しています。
遺伝子の変異──「パンデミックの種」は既にまかれた
研究チームが行った遺伝子解析では、H9N2が複数の「ヒト適応変異」をすでに獲得していることが判明しました。代表的なものとして、HA(ヘマグルチニン)タンパク質における Q226L変異 は、ヒト型受容体への結合力を高める変異として知られています。また、NA(ノイラミニダーゼ)タンパク質の一部が欠損(del62-64)しており、これがヒト細胞への侵入効率を上げる要因とされています。
さらに、ウイルス内部の遺伝子にも変化が起きています。PB2、PB1、PA、M1など、ウイルスの増殖に関わる領域で複数の変異が確認され、哺乳類の細胞環境に適応した形質を持つようになっていました。
中でも注目すべきは、「ヒト体内で新たに発生した変異」です。発症後7日目の検体から、PB2-D253Nという新たな変異がde novoで出現していたのです。これは、感染したヒトの体内でウイルスが進化し続けていることを意味します。つまり、H9N2はヒトを次なる宿主とする準備を、すでに整えつつあるのです。
「低病原性」という誤解──真のリスクを理解する必要性
H9N2は一般に「低病原性鳥インフルエンザ」に分類されています。しかし、この「低病原性」とは、あくまで鳥に対しての評価です。ヒトにおける病原性を意味するものではありません。
実際、2003年から2022年にかけて報告された77件のヒト感染のうち、約6.5%が重症化し、2例(約2.6%)が死亡しています。決して「軽症で済む」と言い切れる数字ではありません。
さらに深刻なのは、H9N2が他の危険な鳥インフルエンザウイルスの“遺伝子供給源”になっていることです。H5N1、H5N6、H7N9、H10N8など、人間に重篤な感染症を引き起こしてきた多くのウイルスが、H9N2の内部遺伝子を取り込んでいます。ウイルス同士が同じ動物の体内で同時感染すると、遺伝子が再集合し、全く新しいウイルスが誕生する可能性があります。この「遺伝子の再集合」こそが、過去のパンデミックを引き起こした主要なメカニズムでした。