自然保護と有機農業が変わる──合成生物学が示す未来✉️28✉️
私たちは今、自然と人間の関わり方を根本から見直す時代に生きています。気候変動、生物多様性の喪失、急増する食料需要──これらの課題は、従来の人間中心の開発や農業活動では解決できない規模と複雑さに達しています。
こうした現実のなかで注目されているのが、ゲノム編集を含めた合成生物学です。合成生物学は単に新しい生命を「つくる」ことに留まらず、自然保護や持続可能な農業を実現する新しい可能性を示しています。
IUCNが示す自然保護の新たな方向性
これまで、新しい生命を創り出す「合成生物学」と、自然を守る「自然保護」は、「相性が良くない」と考えられてきました。人工的に生命を操作することは、自然の秩序を乱す行為として多くの人々から慎重に扱われ、敬遠されてきたのです。
しかし、国際自然保護連合(IUCN)は2025年10月の世界自然保護会議において、合成生物学を自然保護に活かすための初めてのグローバルポリシーを採択しました。この決定は、自然保護の概念を大きく進化させるものです。
合成生物学は、DNAの配列を設計・編集することで生命の機能を自在に操作できる技術です。これまで医療や工業、農業などさまざまな分野で応用が進んできました。IUCNは、自然保護においてこの技術を活用する場合、「倫理」「安全性」「社会的正当性」という三つの観点から慎重に評価する枠組みを提示しています。これは、技術を無条件に受け入れるのでも排除するのでもなく、科学的根拠と社会的合意に基づいて判断する「慎重な楽観主義」と呼べる立場です。
具体的な例として注目されるのが「遺伝子ドライブ」です。この技術を使うと、特定の遺伝子を次世代に強制的に広めることができ、外来種の駆除や病原体の制御に応用可能です。実際、マラリアを媒介する蚊の個体数を減らす試みや、島嶼部で生態系を破壊するネズミの制御などが研究されています。しかし一方で、放たれた生物が制御不能になれば、局所的な生態系に留まらず、広範囲に影響を及ぼすリスクも指摘されています。IUCNはこのようなリスクと可能性を正面から評価し、科学者だけでなく地域共同体や市民の意見も取り入れることで、より民主的な意思決定を重視しています。
さらに注目すべきは、IUCNが自然保護の概念そのものを再定義した点です。従来の自然保護は、人間の介入を最小限に抑え、自然を「守る」ことに主眼を置いてきました。しかしIUCNは、人間も生態系の一部であると捉え、「共に設計する」という視点を取り入れました。
マンモスやドードーなど絶滅した生物を復活させる「デエクスティンクション」の研究も、単なる科学的実験ではなく、未来の生物多様性を取り戻す手段として前向きに評価されています。この発想は、自然保護と科学技術を融合させる新しいパラダイムの兆しといえるでしょう。
有機農業の課題とゲノム編集作物の可能性
一方、食料生産の現場では、持続可能性と効率の両立が喫緊の課題となっています。ヨーロッパでは2030年までに農地の4分の1を有機農業にする目標が掲げられています。有機農業は化学肥料や農薬の使用を制限することで、土壌や水質の保全、生物多様性の維持、さらには人々の健康に寄与することが期待されています。しかし、従来の農法より収穫量が15〜20%低く、十分な食料を確保するにはより広い農地が必要です。このままでは、環境にやさしいといわれる有機農業が、逆に自然環境への負荷を増す結果になってしまうのです。
こうした課題に対して注目されているのが、ゲノム編集による作物改良です。ゲノム編集を活用すれば、病害虫に強く、水利用効率の高い作物を短期間で開発することができます。例えば、トウモロコシでは水利用効率を高める遺伝子を改変することで干ばつ耐性を強化し、イネでは病気に強い性質を付与することが可能です。これにより、限られた土地でも安定した収量を確保でき、自然と共存しながら効率的な食料生産が実現できます。ゲノム編集技術は、持続可能な農業を支える「科学の切り札」として注目されています。
しかし、現実には制度上の制約もあります。EUの有機農業制度ではゲノム編集技術の使用は禁止されています。これは、「自然の力を尊重する」という理念を重視し、人為的な遺伝子操作を認めないという方針に基づくものです。そのため、収量向上や耐性作物の導入といった利点をゲノム編集で補うことは難しい状況です。ただし、ゲノム編集やGMOについて慎重な立場をとってきたEUも近年、自然に近い手法でのゲノム編集作物を従来の育種作物と同等に扱う方向性を示しており、科学者たちは有機農業とゲノム編集を組み合わせた新しい農業カテゴリーの創設を提案しています。これは、科学技術と理念の両立を目指す挑戦です。
自然と科学を統合する視点
IUCNの新しいポリシーと有機農業の課題は、いずれも「自然と人間の関係をどうデザインするか」という共通のテーマに行き着きます。
従来の自然保護は、人間の手をなるべく加えずに守ることを重視してきました。有機農業も同様に、自然の力で作物を育てることを理念としています。しかし、気候変動や人口増加という現実に直面する今、自然保護と食料の確保を両立させるためには、人間の介入や科学技術の活用を慎重に検討する必要があります。
ゲノム編集を含めた合成生物学は、そのための具体的な手段となり得ます。絶滅危惧種の保護や生態系の修復、干ばつや病害に強い作物の開発など、未来の自然と食を守る具体策を提供するのです。しかし同時に、これらの技術には倫理的、社会的、環境的リスクが伴います。
したがって、科学者や政策担当者だけでなく、市民や地域共同体を巻き込んだ継続的な対話が不可欠です。日本においても、干ばつや病害に強いゲノム編集作物の研究は、持続可能な農業の実現に向けて重要な意義を持ちます。科学の可能性を現場の知恵と融合させることが、未来の食と環境を守る鍵となるのです。