ゲノム編集ブタが拓く、臓器移植と食のフロンティア ✉️9✉️
生命科学の最前線で、ブタのゲノム編集が二つの全く異なる領域で大きな節目を迎えています。
一つは、臓器移植の世界を根底から変える可能性を秘めた異種移植。そしてもう一つは、食料システムにおける深刻な課題を解決する家畜生産の未来です。
これらの動きは、米国や中国が先導する中で、日本がこれからどう向き合っていくべきかという、大きな問いを投げかけています。
異種移植の最前線、ブタの肺がヒトへ
2024年5月、広州医科大学第一附属病院のチームは、ゲノム編集されたブタの肺を脳死状態の39歳の男性に移植するという、画期的な手術を成功させました。この成果は2025年8月に「Nature Medicine」誌で発表され注目を集めています。
一方、「肺」は常に外気と接しているため、バクテリアやウイルスといった外部からの脅威にさらされやすく、他の臓器とは異なる固有の課題を抱えていました。その繊細な構造と、強力な免疫応答をいかに制御するかという難題が、異種肺移植の実現を長らく阻んできたのです。
今回の実験でドナーとなったブタは、中国の企業「Clonorgan Biotechnology」が開発したもので、合計6つのゲノム編集が施されていました。具体的には、ヒトの免疫システムが異物と認識して攻撃する原因となる3つの遺伝子(GGTA1、B4GALNT2、CMAH)を無効化し、同時に炎症反応などを抑制する3つのヒト由来の保護遺伝子(CD55、CD46、TBM)を組み込んでいました。
手術は成功裏に終わり、移植直後に起こる最も危険な現象である超急性拒絶反応の兆候は見られませんでした。しかし、移植後24時間後には肺にむくみが確認され、3日目には臓器を破壊する抗体介在性拒絶反応の兆候が表れました。免疫物質が沈着し、臓器の損傷が進行していたのです。興味深いことに、この免疫攻撃は6日目まで続きましたが、9日目にはIgGの沈着が減少し、拒絶反応が部分的に収まる兆候も見られました。
この実験は、異種肺移植の道のりがまだ遠いことを示唆しつつも、重要な進歩でした。脳死患者を対象としたモデルが、ゲノム編集された臓器の挙動や、拒絶反応、感染症のリスクを詳細に評価する上で、非常に有用なツールとなることが示されたのです。
今回の研究では、非常に強力な免疫抑制剤のカクテルが使用されましたが、もし実際の患者に使用すれば、命に関わる感染症を引き起こすリスクが高いとされます。また、ブタ由来の感染症リスクも重要な課題ですが、今回の実験では、ブタ内因性レトロウイルス-C(PERV-C)が陰性であり、活動性の感染症も認められませんでした。これは安全性の観点から大きな成果と言えます。
こうした異種移植の研究は、米国や中国が先行していますが、日本でも日本異種移植研究会や明治大学発のスタートアップPorMedTecなどの動きがあります。しかし、日本では、移植医療の歴史や倫理的議論の積み重ねから、臨床応用に直結する研究には慎重な姿勢が求められてきました。リスクを引き受けつつ実験を重ねる海外の姿勢は、日本が今後どのように研究を進め、社会と対話していくのかを問う、大きな岐路にあることを示しています。
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